30代、私の介護奮闘記 

この体験記は、『家族の会』から原稿依頼があってまとめたものに、加筆したものです。
その為、他のコーナーと一部重複する表現がありますこと、ご了承下さいませ。m(_ _)m
 

*戸惑いの介護当初

以前、内科医をしていた義母はプライドが高く、多趣味で外交的な性格の自立した人でした。独り暮らしをしていた頃から、親戚の方に差し上げた着物や服を返して欲しいとの電話をするといった不可解な行動が見られ始めました。その後、パーキンソン症候群による歩行困難が悪化したこともあり、平成7年同居し、主人と3人での生活が始まりました。

私の本格的介護の始まりは、同居半年後義母が白内障で入院中、ベッドから滑り落ち大腿骨頚部骨折(ひび)をした時からでした。それまでにもいろいろな兆候はありましたが、その入院中から急に目立って異常な言動が現れ、私は突然付添いとして病院に泊まり込み、身体介護と精神介護をしなくてはならなくなりました。その為どうして義母が豹変したのか訳もわからず、私は混乱し戸惑い動揺しました。当時は主人とのいさかいも増えてしまいました。

怪我から1週間後『安静が保てるなら退院してもよい』との主治医の言葉で退院したものの、動く度に激痛のある義母を連れ帰るなんて、今から思うと無謀でした。それからは家族3人皆が混乱し、それを解決する為に、自費の付添いさんに24時間自宅に来て頂きました。しかし、プロの付添いさんでも3日と持たず、他の方と交代。次の方には「100人くらいの患者さんについたけれど、こんなに我がままな人は初めて!」と言われました。

後に、義母が落ち着いてから「あの人は、私を自分の言う事をきかそう、きかそうするから、私は、言う事をきくまい、きくまいと頑張るのよ」と申した事がありました。その頃は、一連の異常な言動は、脳血管性痴呆が進行した為だと諒解出来るようになっていました。それゆえに義母の言葉に、痴呆の対処の鍵があるのだと思ったものでした。

自分が渦の中にいる時にはなかなか見えなかった事が、他人に任す事によって心に少し余裕が出来ました。そして、自分でも介護が続けられるかもしれないと思えるようになるまで、付添いさんにお世話になりました。

*葛藤する心

介護を始めた当時、私はまだ30代始めで義母とは50歳近くも離れていました。義母は老いを受容出来ず、自分の身体の不調に苦しんでいたのでしょう。その事がプライドの高さとなったり、頑固さ、我がまま、そしておかしな言動につながってたのかもしれません。

ところが当時の私はそう言う事がさっぱりわからず、お年寄りの心理まで考え及びませんでしたし、痴呆や身体介護についても全く知識がありませんでした。ただただ、義母の言う事やする事にイライラし、怒りに打ち震え、自分の気持ちを落ち着かせる為に、震える手で日記を書いた事が何度もありました。やさしく接したいのに出来ない自分との葛藤もありました。

加えて30代前半という自分の周りには、同年代で介護をなさっている方はありませんでした。思うように仕事も出来ず、色々な事がしたい年代に、何故自分だけ…という気持ちもあってとても孤独感がありました。そして「私の人生を返して!」と心の中で叫ぶことさえありました。

その後、家族の会に入会し電話相談で話を聴いて頂いたり、インターネットで同じような立場の人と毎日言葉を交わしたり、共感しあい励まし合う事で 私の心も随分と和んだ気がします。また、痴呆の情報や知識を沢山得る事と、ゆるやかな義母の身体機能低下に伴い、少しづつ、痴呆である義母を受容出来るようになったつもりでした。しかし反対に、痴呆に対する適切な対応を知れば知る程、そう出来ない自分を責めて葛藤し『そうしなければ』という脅迫観念も生まれ、それもまた苦しかった事の一つです。

*奮闘した中期

このように混乱の介護生活の中でしたが、義母は音楽好きでしたので、毎週ピアノの先生宅へ連れて行きました。また、自宅ではピアノ講師でもある私と一緒に、ピアノ練習や歌唱も楽しみました。義母は次第に演奏が出来なくなりましたが、歌は晩年まで歌う事が出来、精神的に不安定な時でも、一緒に歌う事で気分転換がお互いに図れました。頭がハッキリしない時でさえピアノを聴いてもらっているうちに、本人の意欲向上が見られたりと、日々音楽のすばらしさを義母のお陰で実感させてもらいました。

その頃は、自分勝手に危ない足元で室内を歩く時期でもあり、再び骨折し入院手術となりました。私は、精神的に混乱のひどくなった義母に付添う為、1ヶ月病室に泊まり、後の1ヶ月は朝から晩まで側にいて義母を支えました。リハビリが効を奏したのは良かったのですが、退院後もやはり室内徘徊は止まず、24時間目が離せない状態は続き監視カメラを付けました。リハビリの為や刺激を与える為、一生懸命散歩に連れ出したのもこの頃でした。

介護保険が始まった頃には既に要介護5で介護の負担が大きく、施設入所やショートを考えた事もありました。しかし、パーキンソン症候群等の服薬は一日に7〜8回。しかも体調にあわせて量も加減していました。食事は嚥下困難の為介助に1時間以上もかかるなど、細やかで、かつ時間のかかるマンツーマンの介護が必要な義母は、施設では対応が無理なため実現しませんでした。

介護を続けていると、義母と私は合わせ鏡のような関係になり『私が機嫌よければ義母も良い。私の心が乱れれば、義母も乱れる』といったようになりました。そしていつの頃からか、義母は息子である主人はもちろん、私に絶対の信頼を置くようになっていて、まるで義母は私達夫婦の子供のような存在になっていきました。トイレ介助の際に義母と体を密着しておりますと、義母が私の背中を撫で撫でしてくれることもあり、深夜でも2人抱き合い背中を撫で撫でしたりなど、私はなんだか嬉しくなったものでした。

*いろいろ考えさせられた終末期

義母は、脳血管性痴呆、慢性硬膜下血腫、パーキンソン症候群、乳ガン、骨粗鬆症、腰椎圧迫骨折等々、いろいろな病気を抱えていました。そして病状悪化に伴い、病気に対する対応や判断が、家族に重くのしかかってきました。

特に、乳ガン悪化の際は、自分で状況判断できない義母に代わり、乳房切除手術や放射線治療を受けるかどうか、また嚥下困難に陥った時は、胃瘻設置手術をするかしないかなど本人の希望を聞くことなく、私と主人が判断せざるを得なかった状況は、とても重く辛い事でした。

結局、勢いを増す乳ガンへの対処療法としての乳房切除手術後、自宅からストレッチャーのまま病院へ、放射線療法に通いました。それは毎日1ヶ月半に及びました。翌年、再び1ヶ月半の放射線療法をうけた後も病状が進み、口から食べられなくなった義母は、胃瘻設置手術も受けました。

その後も乳ガンの勢いはさらに増し、ガンが体の表面を這う形で広がり、患部からの滲出液は一日何回もガーゼ交換と消毒が必要なほどで、胸全体を紙オムツで巻いている状態。さらに浮腫も全身に広がり、義母も家族も苦しい時期となりました。

ギリギリまで在宅を続けた事や、いろんなカテーテルが体に入る状態が果たして良かったのか悪かったのかは、意見の分かれる所ではあるでしょうが、在宅酸素を使用し尿管にカテーテルが入り、胃瘻、点滴をしつつも日常のペースを守った在宅介護が続けられたのは、往診の先生や看護師さんヘルパーさんのお陰です。こうして義母は、最後10日間余りの入院を経て、平成13年秋、85才で亡くなりました。

大きな重圧感や、時間的あるいは精神的な拘束感に窒息しそうな、苦しい介護ではありましたが、義母から、いろいろと大きな贈り物をもらった気がします。今となっては、義母に感謝したい気持ちです。(*^^*)

H.14.8.9 


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